2010年 12月 10日
トルストイ展 |
現在、Literaturhausで行われている『トルストイ展』に行ってきました。
今年没後百年を迎えた文豪トルストイ。展覧会では彼の直筆の原稿や写真、
現存する貴重な生前の映像と共に、彼の苦難の人生を詳しく紹介していました。
展示会で最も感銘を受けたのは、50歳にして既に世界的名声を得ていたにも
かかわらず、それを全て放棄してまでキリストの教えに生きようとした
残りの人生についての詳細な展示です。特に映像には説得力がありました。
写真や映像って、それだけで聞いたり読んだりするよりも、真相を感じ取れる
部分がありますよね。
中でも、ソクラテスとモーツアルトの妻と並んで、世界三大悪妻の一人として有名
な、トルストイの妻ソフィアの写真からは、意外な『本当』を知りました。
写真で見た彼女は、想像とは違い人生経験たっぷりの『お母ちゃん』という感じ
のビック・ママであったのに対し、年を重ねるにつれて、子供のような表情に
なっていったトルストイ。喧嘩が絶えなかったそうですが、二人は確かに対照的。
しかし写真のどれからも、二人の切っても切れない絆というか愛を感じるんです。
憎み合っていたとばかり思っていた。でも違ってた。夫婦ってどこでも同じだなあ、
なんて、そんな所でも非常に感銘を受けましたよ。
っが、ともかく強く心をつかれたのは、キリストの弟子になろうと徹底して行い
に励む傍ら、衰弱して行った様にしか見えないトルストイの姿を見たことでした。
その姿を見ながら思い出していたのは、以前に読んだ、現代訳聖書を訳された
尾山令仁先生の『トルストイの生涯』というご文章です。やっぱり先生の仰る通り
なのかなって。するとこれまで読んだ文豪の作品の中の登場人物が、文豪自身と
とっても重なって感じました。(それにしても小説の中の『アンナ・カレーニナ』
が鉄道の駅で自殺したのに対し、自殺ではないにしても一人、文豪も最後、駅で
亡くなったのことの類似点は、私はただの偶然とは思えないんですが・・・)
巨人、文豪・トルストイ。なにゆえそれほどに偉大な人物であったかを、映像や
写真から、更に、感じ取らせてくれたトルストイ展でした。
展示会は来年の1月30日まで。
尾山先生『唯人のブログより』
トルストイの生涯(1)
ロシアの文豪トルストイの名前を知らない人はいないだろうと思う。たとい彼の本を読んだことはなくとも、彼の大作「戦争と平和」の名前を知らない人はいないだろうと思う。
世界的文豪レオ・トルストイは、1829年8月28日、ヤスナヤ・ポリヤナに生まれた。一歳の時に母を失い、八歳の時に父を失い、その後、母親代わりとして彼を育ててきてくれた叔母を十三歳の時に失ってしまっている。そうしたことから、彼は十六歳になると、深い懐疑に捕えられ、それ以来「青春の荒野」の旅をしなければならなくなった。そのため、それまでずっと続けてきた祈祷をやめ、教会にも行かなくなってしまったのである。そして数年間というものは、虚無的な考え方に走り、賭け事にふけったり、ジプシーの女に迷ったり、また酒におぼれたりして、獣のような生き方をしていた。
しかし、彼は驚くほどの健康体の持ち主で、クリミヤ戦争に参加した時も、セバストポーリの籠城戦では、勇敢に戦い、将来、将軍になることを夢見たこともあったほどである。しかしながら、戦争の悲惨さを見るに及んで、人間の運命と人生の目的と永遠の真理を瞑想して、その中から初期の文学作品が生まれていった。
彼は三十四歳の時、モスクワの王宮に仕えていた医師ベールスの次女ソフィヤと結婚した。その時、ソフィヤはまだ十八歳になったばかりの乙女であった。その結婚は極めて幸福な結婚であって、彼は友人に「私は全く新しい人間になりました」と手紙をしたためているほどである。結婚後、彼は「戦争と平和」の大作に取りかかり、妻ソフィヤの助けを借りて、数年にしてこれを完成することが出来た。そして、彼が五十歳になった時には、「アンナ・カレニナ」も完成して、文士としての名声は世界に広まり、文豪としての地位も確保していた。
ところが、世界的に名声を博した五十年の彼の人生も、トルストイの心には平安をもたらさなかった。そして、年齢にも似合わぬほど若々しい煩悩が彼の心を捕えていたのである。時には、自殺の誘惑にもかられるほどであった。しかしその時、彼はかろうじて新約聖書の福音書によって救われた。彼は、当時のロシア正教会の持つ迷妄から解放されたいと思い、聖書を原語で学ぼうと決心し、ヘブル語やギリシャ語さえも勉強するようになっていた。
このように、文学者としてのトルストイは、宗教家としての面も持つようになっていった。いや、むしろ文学者という過去の一切の名声をかなぐり捨てるために、自分のすべての作品を、ちりあくたのように思い、聖書の研究と宗教論文に熱中していったのである。そのようなトルストイの姿を見て、彼のうちにある従来の才能に期待していた人々は失望し、多くの友は彼のもとを去って行ってしまった。しかし、トルストイは、ヤスナヤ・ポリヤナの預言者と認められ、その名声はとみに上がり、彼を慕う人々もまた現れるようになっていった。
ところが、ここにはからずも、トルストイを破滅に至らせる不幸がきざしていたのである。それは、文学的労作を去って宗教に熱中するトルストイに対して、どうしても心から喜ぶことのできなかった妻ソフィヤとの衝突であった。全ロシアの文豪であるだけでなく、世界的大文豪となることを夫に期待していた妻のソフィヤの目には、トルストイの宗教活動が、いわば気まぐれな遊び事ででもあるかのようにしか思えなかった。だから、一日も早くこのような事が過ぎ去ってくれることを願っていた。しかも、心の中でひそかに願うだけではなく、時には面と向かってののしることもあった。こうして、この夫婦は、寄ると触ると、けんかで明け暮れるという有様になっていった。
ロシアの国に革命のきざしが見え、アレクサンドル二世が暗殺されたのは、トルストイが五十三歳の時のことであった。五十四歳になった彼は、静かに自分の生涯を顧み、人生の区切りを付けようと考え、「わが懺悔」を発表した。この同じ年の冬、モスクワでは民勢調査の企てがあって、彼は自分の目でモスクワの貧民窟の実状を見る機会があった。その時、彼はみじめな人々の有様を見て、自分が罪を犯していると感じた。彼は家に帰って来て、じゅうたんを敷いた階段を上がり、じゅうたんを敷いた部屋に入り、毛糸の暖かい上着を脱ぎ、それから白いネクタイを着け、白い手袋をはめて食卓に着き、揃いの服を着た二人の召使いの給仕によって、五品の料理を食べようとした時、自分がどんなに深い罪を犯しているのかを感じた。それは、だれかが良い生活をするということは、だれかを貧しく不幸な生活の中に突き落とすことになるのだと思ったからである。
トルストイの生涯(2)
トルストイがモスクワの貧民窟について彼の友人たちに語る時、彼は泣き叫び、こぶしを振るいながら、
「どんな人でもこのような生き方をしてはならないのだ」
と言っては、呆然とするのであった。こうして、56歳になった時、彼は、「私たちは何をなすべきか」という論文を書き、不幸な人たちが救われなければ、私たちも本当には救われないのだと告白し、このように語っている。
「本当の人間は、理性的な生活を送らなければならない。そして、理性の活動は愛であって、愛は直ちに実行が伴わなければならない。」
トルストイは、主イエス・キリストの山上の説教を実践しなければならないと考え、それを主張しながらも、実践しきれない自分に悩み続けた。
このようなトルストイの人間性に徹した主義主張に対しては、多くの追従者が現れてきた。とくに50歳の時から書き出した、宗教的な通俗物語は、ロマンロランが、「芸術以上の芸術」と推薦したほどのもので、それは、ロシア本国だけでなく、全世界の人々にも広く読まれ、その発行部数は、なんと一年間に400万部にも及んだと言われている。
トルストイの主張は、ロシア正教会の教えとは相容れないところから、ついに彼が73歳になった時、彼はロシア正教会から除名されてしまった。その除名が発表された時、それとも知らずにクレムリン宮殿の近くの広場を散歩していたトルストイを、労働者を加えた学生たちの一群が取り囲み、除名に憤慨し、かえってトルストイを激励するという場面もあった。やがて、各地からはトルストイを激励する文書が舞い込み、トルストイの誕生日のようなにぎやかさを呈したほどであった。
日露戦争が勃発し、トルストイを悲しませたのは、彼の76歳の時のことであった。彼は年老いて、なお自分の言行の矛盾に悩み続けた。特に彼の言葉に従って立派に実行しているように見える、いわゆる彼の弟子たちの姿を見ては、自責の念にかられた。そのころトルストイは、よく目に涙を浮べながら、こう言った。
「よく人が、お前は立派な説教をするけれども、お前の生活はどうだ、お前のやっていることはどうだと言って責める。その通り、私も本当に悲しく思っている。自分は説教したいのはやまやまだけれども、説教はしないつもりだ。自分のやっていることが主流なら説教もできようが、自分のやっていることがよくないのだから仕方がない。私のは説教ではない。ただ人生の意義を見出したいと努力しているにすぎない。私もその教えを守ろうと努力していることだけは認めてほしい。」
トルストイは、パウロが語っている福音(パウロの手紙の中にある)は、神秘的説教であり、倫理的な面が欠けていると言って批判していたが、彼の理解していたキリストの福音は、いわゆる道徳訓にすぎなかった。そして、それを実行するところに重点が置かれていた。
主イエス・キリストの山上の説教にある、
「右の頬を打たれたら左の頬も向けてやりなさい」
を実行することだった。また、
「あなたの敵を愛しなさい」
を実践することであった。
このように、キリスト教の福音をただの道徳訓と規定したトルストイは、自らその実践が出来ないことに悩み、絶望しなければならなかった。そこに、妻から逃げ出し、家出をし、ウラル・リヤザン線の一寒村アスターボーの駅で、独り寂しく死ななければならない運命が待っていたのである。
トルストイは、自分の心を責めるものが、彼の名声であり、富であり、彼の人間としての幸福であると考えた。そして、彼の晩年は、それらの一切から逃れたいと思ったのだ。80歳の坂を越し、厳しい妻の監視の元で、トルストイの心は若者のように悩んだ。彼の悩みを病的わがままと見て、二度までも試みた家出を防ぎさえすれば平和が与えられると堅く信じていた妻は、夜も昼も親切な言葉を使って、トルストイの周囲につきまとい、監視し、自由と解放を望むトルストイの魂を、自分自身に縛り付けておこうとした。しかしながら、ついにトルストイは家出に成功するのだが、自由になった彼にはすぐに死が訪れてきた。
人間の力で愛の人になることは出来ないのだということを、トルストイの生涯は私たちに教えてくれている。トルストイの涙ぐましいまでの苦闘も、ついに実を結ぶことはできなかった。聖書が一貫して、人間は自分の力によっては決して愛の人にはなれない罪人なのだと教えていることが、これでよく分ったのではないかと思う。
by flageoles
| 2010-12-10 08:30
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